ラムサールセンターの30年

ラムサールセンターは、2020年に設立30周年を迎えました。30周年を迎えるにあたり、前RCJ事務局長(現RCJフェロー)の中村玲子さんがこれまでのラムサールセンターでの活動の振り返りを、「磯崎博司先生 古希記念出版論文集」内で執筆しました。こちらのページでも、原稿を内容が転載できることとなりました。ぜひご覧ください。

 

ラムサールセンターの30年

中村 玲子 (ラムサールセンターフェロー)
※「磯崎博司先生古稀記念論文集」(2020年)に寄稿したものの転載です。

Ⅰ.はじめに―――新田駅前冷し中華事件
Ⅱ.アジア地域の国際湿地シンポジウムを開催しよう
Ⅲ.ラムサール条約第4回締約国会議(COP4)
Ⅳ.開催地は琵琶湖で
Ⅴ.開催組織の態勢をどうするか
Ⅵ.環境庁の共催が決まった
Ⅶ.アジア湿地シンポジウム事務局開設
Ⅷ.エピローグ

 

Ⅰ.はじめに―――新田駅前冷し中華事件

1989年6月4日。ラムサール条約とラムサールセンター、そして磯崎博司先生との30年におよぶ関係がこの日に始まった。
午前9時前、岩手県一関の中尊寺参道前の駐車場で、私はフリー編集者の武者孝幸さんと、磯崎先生を待っていた。岩手大学人文社会科学部助教授で国際環境法の専門家、新進気鋭の研究者である。4年ほど前に日本で2番目のラムサール条約登録湿地になった「伊豆沼・内沼」(宮城県)を取材するため、登録の経緯にも詳しい磯崎先生に案内と解説をお願いしたのだ。盛岡の自宅からシルバーのギャランを運転して約束の時間に現れた先生は、後部座席に私たちを乗せると、免許取得1か月というややぎこちないハンドルさばきで、国道4号線を伊豆沼・内沼に向かって走りだした。

「伊豆沼はオランダでのラムサール条約第2回締約国会議の勧告で、登録を名指しで要請され、日本政府はあわてました。迫町、若柳町、築館市の3自治体がかかわっていて温度差があり、上流の築館は工業都市で排水規制がかかるのを警戒し、農業主体の迫と若柳には稲の収穫時期に渡ってくるマガンの食害問題がありました。そこで宮城県が3自治体を束ねる形で財団をつくって、ようやく登録にこぎつけました」。早速レクチャーがはじまった。

先生と会うのは3年ぶりだった。1984年から1988年、私は日本野鳥の会事務局で日本ツル保護特別委員会というツル保護プロジェクトの事務局長をしていて、タンチョウの生息する第1号ラムサール条約登録湿地「釧路湿原」と周辺農家との関係について、先生からレクチャーを受けたことがあった。挨拶もそこそこにいきなり本題に入る磯崎スタイルはあいかわらずだった。

伊豆沼・内沼を訪れたのは、釧路市から「ラムサール条約と釧路湿原」をテーマに講演を頼まれたからだった。1988年4月に野鳥の会を離れた私は、道東の湿原に生息するタンチョウと人間の関わりを調査するため、釧路湿原のほとりの標茶町塘路に家を借りて住んでいて、お隣の釧路市から声がかかった。講演の前に、当時日本に2つしかなかったもうひとつの登録湿地も見ておこうと思ったのだ。芭蕉の足跡を辿る雑誌企画で東北取材を計画していた編集者仲間の武者さんも同行した。

6月初めだというのに、真夏のような日差しの暑い日だった。
そのころ釧路市では、1993年に開催予定のラムサール条約第5回締約国会議(COP5)を誘致する動きが加速していた。鰐淵俊之釧路市長の環境庁(当時)への要請(1988年10月)、ラムサール条約締約国会議誘致期成会の発足と陳情(1989年1月)などの話題が地元紙をにぎわせ、登録湿地を所管する市町村をネットワークする「ラムサール条約国内登録湿地関係市町村会議」の準備も進められていた。私が頼まれた講演会も、COP5誘致へ市民の関心を盛り上げるための啓発活動の一環として企画されたものだった。

ラムサール条約は、いまでこそ「湿地の条約」と正しく理解されているが、当時はハクチョウやガン、ツルなどの「水鳥保護条約」と思われていて、新聞やテレビでも「水鳥を守るラムサール条約」などと紹介されていた。

「ラムサール条約の目標は水鳥の保護ではありません。湿地の賢明な利用、ワイズユースです。湿地はマイナスのイメージが強いのですが、実は生命力の宝庫です。このことを再評価し、生態系を積極的に保全しようとしている点がラムサール条約の最大の特色です。地球環境問題への関心が近年ようやく高まっていますが、1971年にこうした基本認識を打ち出した先見性は高く評価されるべきです」

伊豆沼の湖岸に沿って、若柳町の野鳥観察所、築館市にある内沼の東岸を経て、迫町のJR東北本線新田駅前の食堂で「冷し中華」を食べているあいだも、磯崎レクチャーはつづいた。環境庁は締約国会議をホストすることを本気で検討していて、COP5の釧路開催が実現する可能性は高いと磯崎先生は考えていた。

「政府が本気に取り組めば締約国会議は開催できるでしょう。しかし道東の釧路での会議となると、メディアもあまり注目せず、みんなが知らないうちに終わってしまうかもしれません。アジアで初のCOP開催は、条約をアジアに広め、湿地の保全を推進するまたとないチャンスです。でも、市民の理解が深まらず、湿地保全の具体的な進展がみられなければ、会議が成功したとはいえません。いくら理念が優れた条約でも、実施されなければ意味がありません」

「だったら、ラムサール条約のことを市民に広める運動をすればいいじゃないですか」

武者さんが口火を切った。そして、私たち3人は、「ラムサール条約を日本とアジアに普及啓発し、締約国と登録湿地を増やし、ラムサール条約COP5を成功させる応援団をつくろう」と、そのとき決めたのだ。地球環境条約の履行を市民の立場から支援することを目標に掲げたNGOなどは、それまで日本にはなかった。いや世界的にみても珍しかっただろう。

それから1年後の「ラムサールセンター(湿地と人間研究会)」設立に至る、この日がその第一歩だった。「新田駅前冷し中華事件」と、私たちは感慨をこめてそう呼んでいる。

 

Ⅱ.アジア地域の国際湿地シンポジウムを開催しよう

1990年5月12日、およそ10人の賛同者を得て、ラムサールセンターは正式に誕生した。新宿2丁目の酒場で開かれた設立集会に集まったのは、編集者、デザイナー、自然調査コンサルタント、法律家、システムエンジニア、会社社長、テレビプロデューサーなど多彩な顔ぶれだった。もちろん会長が磯崎先生、そして私が事務局長と決まり、事務局は武者さんの経営する編集プロダクションに置かせてもらうことになった。団体名は、当時はほとんど知られていなかった「ラムサール条約」に少しでも関心をもってもらうため、「ラムサールセンター(湿地と人間研究会)」とした。そして、当面の重点目標として以下の2つを設立趣意書に掲げて活動を開始した。

①1993年に北海道釧路市で開催される予定の「ラムサール条約第5回締約国会議」に向けて、日本の具体的な貢献が国際的に求められている。そのためラムサール条約および関連する法制度に関する研究、登録候補湿地に関する研究、湿地の健全な利用などに関する研究を進め、釧路会議が名実ともに充実したものになるよう支援すること。

②この第5回締約国会議のプレビュー会議として、条約加盟国も少なく、湿地の破壊が著しいアジア地域の問題について、1992年5月に、関係諸国の研究者および専門家による「アジアの湿地と人間シンポジウム」を開催すること。

この2年前の1987年9月、フランスのリヨン大学で国際自然保護連合(IUCN)とフランス法学会による、湿地の法制度に関する初の国際会議(リヨン会議)が開かれていた。参加60余人の多くは欧米の環境法学者や政府代表、世界自然保護基金(WWF)、国際水禽湿地調査局(IWRB)などの国際NGOで、アジアからはタイとネパールから数名が参加した。磯崎先生は唯一の日本人として参加を予定していたが、大学との出張手続きが間に合わず断念していた。リヨン会議では、世界の湿地の現状やラムサール条約の役割、国内法の整備などが話し合われ、湿地保全に大きな課題を抱えているアジア地域へ、一刻も早くラムサール条約を普及する必要性が指摘されたという。当時、アジアの締約国はイラン、パキスタン、ヨルダン、日本、インドなど数か国にすぎなかった。

このリヨン会議のフォローアップ会合を、COP5のプレシンポジウムとして日本で開催できないかというのが磯崎先生の腹案だった。日本で国際会議をゼロから立ち上げるには、大きなエネルギーがいる。一度開催して国際的に評価が定まった会議を、その成果ごともってくるほうが数段楽だ。「アジアにラムサール条約の普及を!」とリヨン会議で指摘した欧米の環境法学者の協力も得やすいはずだ。1993年のラムサールCOP5を前に、ラムサール条約や湿地保全の重要性を普及啓発するには絶好の機会だろう。

ラムサールセンターは設立時からいまに至るまで、法人格、基金、有給スタッフなどをもたず、手弁当で活動する任意のボランティア団体である。COP5のプレ会議としてアジア湿地シンポジウムを開催すると目標を定めたときも、資金や協力者などの裏付けがあったわけではない。やりたいことがそこにあり、それが社会に必要とされ、活動方針が正しければ、必要な人手や資金は、きっとなんとかなるはずだ。そのことに、私たちは疑いを持たなかった。こうして、磯崎先生のリーダーシップのもと、国際シンポジウム開催という、まったく未知未経験の活動に向けて歩き出すことになった。

1990年6月22日、磯崎先生、武者さんと私は、スイス・モントルーで開催されるラムサール条約第4回締約国会議(COP4)にオブザーバーとして出席するため、日本を飛び立った。

 

Ⅲ.ラムサール条約第4回締約国会議(COP4)

スイスのCOP4の会場に行く前に磯崎先生がまず訪ねたのは、当時の西ドイツの首都ボンにあるIUCN環境法センター(IUCN-ELC)だった。降り立ったボン中央駅からの距離を見誤り、ライン川と並行して南東にまっすぐ伸びる大通りアデナウアーアレーを1時間以上歩くことになったが、約束に遅れて到着した3人の日本人を、センター長のフランソワーズ・ブルへンヌは柔らかい笑顔で迎えてくれた。IUCN環境法委員会(IUCN-CEL)の委員長を務める夫のヴォルフガングとともに、国際環境法学界のリーダー的存在のひとりである。当時からIUCN-CELのメンバーだった磯崎先生とは書面でのやりとりはあったものの、会うのは初めてだった。

アジア湿地シンポジウム開催の趣旨を聞いたフランソワーズは「そういうことなら、アレックスに相談するといいわ」とその場で受話器をとりあげ、フランスのストラスブールの環境法センター長アレキサンダー・キース、もうひとりの国際環境法の大御所に電話して、面会のアポをとってくれた。

2日後の6月27日、私たちはストラスブールのロバート・シューマン大学のキース教授の研究室にいた。キースは当時60代半ば、自他ともに認める国際環境法の第一人者だったが、20歳も年下の初対面の磯崎先生の話に真剣に耳を傾け、「わかった」と深くうなずいた。そして「国際シンポジウムはその規模にもよるが、最低でも1年前には準備を始めないといけない」と、力強い声で語りはじめた。

「まずアジアの締約国各国に開催の意思表明をする。そしてアジアの湿地の実状と保全の制度を知るため質問票を送る。その結果を見て、招待する国を決める。14ないし15か国を目標とする。日程は最低2日から2日半。1日半はプレゼンテーション、エクスカーションを半日、まとめに半日。基調講演は大学教授か科学者。環境庁にはオープニングスピーチを。事前のプレス発表は必須。海外への招待状は3か月前に。バカンスが入る時期はさらにその1か月前。法律家、議員、NGO、学生、農業、漁業、公害企業、関係するすべての人の参加を求める。会議の成果の勧告を出すための起草委員会を設置する。1992年のリオの国連会議の前後は避ける・・・・・・」

当時の私の取材ノートには、あわててメモしたキースのアドバイスが7ページにわたって書きとめられている。

国際シンポジウムのロジスティックスについて、こんなふうにいきなり、具体的な助言を受けるとは思ってもいなかった。国際シンポジウムを開催することの輪郭が、少しわかってきたと当時に、これはたいへんなことになった、と思った。

「いままで50回以上会議を開いてきたが、いちばん大切なのはファンドです」とキースはそう締めくくった。

このあと、28日からCOP4(6月27日から7月4日)に合流した。重要な会議だから街には案内看板くらい出ているかと思ったが、その気配はなかった。道行く人もレマン湖を楽しむ観光客ばかりで、各国代表らしきの人は見当たらない。通りがかった若い人に「ラムサール条約の会議はどこですか」と尋ねると、「ラムサールは知らないけど、国際会議だったいつもあそこだよ」と湖畔の国際会議場を教えてくれた。

博物館か図書館のような落ち着いた造りの会場では、各国代表はじめオブザーバーのNGOなど400人が参加して淡々と議事が進められていた。1993年のCOP5(釧路会議)からは、主催地の市民やNGO、ボランティアをまきこんだ「環境イベント」の性格をもち、それ自体がラムサール条約のCEPA(Communication, Education, Participation, Awareness)の役割を果たすようになったが、それまでのCOPは、COP1がイタリア・カリアリ(1980年)、COP2がオランダ・フローニンヘン(1984年)、COP3がカナダ・レジャイナ(1987年)と、条約の成立を牽引した欧米の国々が持ち回りでホスト役を担って、各国代表による利害調整の場というよりは、湿地の保全と賢明な利用をどう促進するかを話し合う、地味な科学者会議の様相が濃かった。参加者の服装もスーツにネクタイという官僚然としたスタイルよりは、カジュアルな装いの人が多かった。

そんななか、会場にひときわ異彩を放つ一団がいた。COP5の釧路市への招致をめざしてスイスまで駆けつけた「釧路市代表団」の約30人だ。率いるのは鰐淵釧路市長。みんな黒っぽい背広にネクタイで、会場の後部席にまとまって座り、耳慣れないはずの英語やフランス語でのやりとりを背筋を伸ばしてじっと聞いていた。着物姿の同伴夫人までいた。COP4参加者の目には不思議な光景に映ったようだ。

釧路市代表団は、宿舎のホテルで、COP参加者向けの夕食会も催した。刺身や鮨を用意し、丹頂鶴の形の陶器に仕込んだ日本酒を和服のコンパニオンがふるまうという豪華なパーティだった。このいかにも日本的な宴会型のもてなしで、日本がそして釧路市が招致に本気だということをアピールするのに大いに効果的だった。COP4最終日の7月4日、COP5が1993年に釧路市で開催されることが、満場の拍手とともに決まった。

このCOP4ではもうひとつ、忘れられないパーティがあった。モントルー市主催の歓迎レセプションである。夕刻、まだ明るい空の下をレマン湖に滑りだした湖上観光船の上で、上下2フロアを開放しての立食パーティだった。赤ワイン白ワインのボトルが次々開けられ、チーズとソーセージがふんだんにふるまわれた。少し離れた位置で赤ワインのグラスを手にした磯崎先生がしきりに手招きする。人混みを縫って近寄ると「紹介します。ラムサール条約事務局長のダニエル・ネイビッドさんです。アジア湿地シンポジウムの話はしました。応援してくれるそうです。詳しいお話をしてあげてください」。

え、そういわれてもと思いつつなんとか話をしていると、磯崎先生がまた別の場所からまた手招きする。「IUCNの○○さんです」。WWFの・・・・・・IWRBの・・・・・デンマークの・・・・・・フランスの・・・・・・、何人に紹介されただろうか。数日前にボンで会ったフランソワーズにも再び会った。わずか1時間ほどの間に、磯崎先生の積極的なコミュニケーションで、世界の湿地保全を牽引するキーパーソンの多くと知り合うことができた。そして、みんながアジア湿地シンポジウムを日本で開催する計画に賛同し、できる限りの支援を約束してくれた。

このときの約束が、酒の席での単なる「口約束」ではなかったことは2年後に証明されることになる。

 

Ⅳ.開催地は琵琶湖で

日本に帰った私たちは、アジア湿地シンポジウム開催を実現するために具体的に動きだした。

まず資金である。企画書をつくり、協賛スポンサーとなってくれそうな企業に片端からコンタクトした。日本は1980年代のバブル経済の終焉を迎えていたが、まだ沸騰の余韻が残っていた。趣旨に賛同した富士重工業がまっさきに広報車両のレガシーを1年間貸与してくれた。「ラムサール号」と名付け、ラムサールセンターのロゴを装飾し、北海道から鹿児島まで、日本中の湿地を走り回った。富士重工はラムサールセンター総会や各種会議に新宿西口前の本社ビルの会議室を使わせてくれるなど、いまでいう「企業の社会的責任(CSR)」の草分け的協力をしてくれた。

日本債券信用銀行は協賛金200万円をポンとだしてくれた。まとまった活動資金を持たないラムサールセンターが思い切ってスタートダッシュを切ることができたのは、いまはなき「ワリシンの日債銀」のおかげである。

シンポジウムの開催地をどこにするかは、スイスにいる間にすでに磯崎先生と話し合っていた。COP5の舞台は釧路で、日本のラムサール条約登録湿地は1989年に浜頓別町のクッチャロ湖が加わって3か所になったものの、北日本に偏っている。もっと南で、西日本で開催したい。そうすればラムサール条約を全国に広報することができる。有名な湿地のあるところがいい。シンポジウム開催を機にそこが登録湿地になれば、普及啓発の効果はさらに高まる。であれば日本最大の湖、滋賀県の琵琶湖しかないだろうと、3人の意見が一致するのに時間はかからなかった。

1990年11月19日、磯崎先生、武者さんと私は、滋賀県琵琶湖研究所の初代所長、吉良竜夫先生に会った。滋賀県にはなんの伝手もなく、知り合いの京大出身の朝日新聞記者から、京大生態学研究センターの吉良先生の教え子研究者につないでもらって、この日本における生態学の草分け的科学者にアポをもらった。

大津駅から歩いて10分、琵琶湖のほとりの研究所で、吉良先生は静かな表情で磯崎先生の話に耳を傾け、「そうですか、琵琶湖も湿地ですか」とつぶやいた。そして「意義のある計画だと思います。研究所として資金支援はできませんが、この施設をシンポジウム会場として無料で使っていただいてかまいません」

こうして、収容人数150人のホールを持ち、同時通訳の設備も導入可能な、アジア湿地シンポジウムの会場がいち早く決まった。

吉良先生はそのとき、「みなさんはNGOだから、県庁の人よりも国際会議の経験のあるNGOを紹介しましょう」と、財団法人国際湖沼環境委員会(ILEC)を紹介してくれた。

ILECは滋賀県が中心になって設立されたNGOで、1984年に滋賀県が提唱して以来2年ごとに開催されている「世界湖沼会議」の事務局を担っていた。ILECのオフィスは、いまは草津市の県立琵琶湖博物館別館にあるが、当時は琵琶湖研究所から歩いてすぐの県庁の別棟にあった。うながされるままに訪ねると、エネルギッシュな雰囲気の男性が、足音軽く現れた。「安藤です」。それが後に2006年から2017年まで実に11年間もラムサールセンターの会長を務めることになる安藤元一さんとの出会いだった。大学で哺乳類を研究し、アフリカや韓国で仕事した経験ももつ安藤さんは、当時は滋賀県職員としてILECに出向中で、2か月前の1990年9月、第4回世界湖沼会議(中国・杭州)を成功させたばかりだった。

安藤さんの研究者としての科学的視点、国際的な視野、会議のロジスティックス経験、そして強力な推進力という応援を得て、アジア湿地シンポジウム開催が一気に現実味を帯びてきた。

 

Ⅴ. 開催組織の態勢をどうするか

アジア湿地シンポジウムをラムサールセンター単独で開催するつもりは最初からなかった。NGOが提唱して誕生させた計画なので、日本の主要な自然保護NGO、開催地の自治体、そしてラムサール条約を所管する環境庁などと共催するのが望ましいだろうとは考えていた。しかし、開催組織の枠組みが整うまでの道のりは遠かった。

COP5の釧路市開催の正式決定にさきがけて1988年、ラムサール条約事務局長のネイビッドが初めて日本を訪れた。外務省、環境省を表敬訪問してラムサール条約普及への協力を要請後、第1号登録湿地の釧路湿原を視察した。そのとき案内をしたのが、日本野鳥の会常務の市田則孝さんだった。市田さんはCOP4にも参加していたので、アジア湿地シンポジウム開催への協力をまっさきにお願いした。しかし、野鳥の会としてはこの計画には参加できないだろう、という答えだった。

日本に帰国してからすぐ、IWRB日本委員会(IWRB/J)に共催を打診した。英国スリムブリッジに本部のあるIWRBは、IUCNやWWFと並んでラムサール条約の誕生に大きく貢献した国際NGOで、その日本委員会は1980年の日本のラムサール条約加入を後押しした実績をもっていた。IWRB本部代表のマイケル・モーザー博士とはCOP4で会い、シンポジウムへの協力の確約を得ていたので、日本委員会も共催に加わってもらえると思った。磯崎先生の上京の機会をとらえて、当時日本野鳥の会本部にあった事務局にお願いにいったが、答えは、協力できませんだった。無理もない。数か月前に誕生したばかりで、活動の実績のない任意団体からの、まだ形も見えない国際会議の要請に、そんな簡単に乗れるものではなかったろう。

環境庁と滋賀県も、面会に行けばていねいに話は聞いてくれるものの、それ以上の具体的な協力の話にはなかなか進まなかった。WWFJ、自然環境研究センターなどにも相談にいったが、らちが明かない。

そんなとき、日本放送協会(NHK)の外郭の財団法人から、滋賀県長浜市と共同でおこなう大規模な地域振興イベントの一環としてシンポジウムを共催しないか、という提案をもらった。長浜市は、琵琶湖のほとりにある古い町並みが美しい都市で、立地的には申し分ない。計画されていた予算規模の大きい地域振興イベントの一環として共催できれば、ラムサールセンター側の資金的負担は少なくてすむ。イベント主催者側からすれば、アジア湿地シンポジウムという国際的な環境プログラムを組みこむことで、イベントの格があがる。まさにウィンウィンの関係で「商談成立」の直前までいった。渋谷のNHK放送センターの見晴らしのいい会議室での何回目かの打合せで、先方の担当者がふともらした言葉がこうだった。「あなたがた、お金はないんでしょう。シンポジウムだけやったって人はきませんよ。150人も集めればいいんでしょ。いっしょに、ぱあっとやりましょう」。特別、悪気があったわけではない本音だったのだろう。

磯崎先生が表情を硬くした気配が、私にもわかった。打合せを終え、NHKを後にしてすぐ、武者さんがいった。「この話、断りましょう」。

希望が見えかかっていたアジア湿地シンポジウムの開催準備は振り出しにもどった。しかし、私たちの目標は、多くの人を集めることではなく、会議の質であることを改めて確認したできごとだった。

 

Ⅵ. 環境庁の共催が決まった

シンポジウムの共催団体として最初に名乗りをあげてくれたのはILECだった。IUCNの湿地計画調整官パトリック・デュガンが来日した機会をとらえ、1991年7月、ILECとラムサールセンターは協力して「湿地とワイズユースシンポジウム」を東京・虎ノ門のダイヤモンドホールで開催した。通訳なしの英語で通した、当時としては異例の講演とパネルディスカッションに60人が参加し、成功した。その実績がILECをアジア湿地シンポジウムに組織として正式に関わらせるきっかけになったようだ。湖沼保全分野で国際的に定評のあるILECの参加が確定したのはありがたかった。

その2か月後、大きな転換点が訪れた。1991年9月、ラムサール条約のネイビッド事務局長が、COP5釧路会議の準備で来日し、アジア湿地シンポジウム開催をめぐっての条約事務局、環境庁、ラムサールセンターの3者会談が、9月2日金曜日午後2時、東京・日比谷のプレスセンターのロビーで実現した。

実はそのころ環境庁も、やはりCOP5のプレ企画として、1992年にアジアの国々を対象にした湿地と生物多様性保全に関する国際セミナーを開く計画をもっていた。アジア湿地シンポジウムと同様、ラムサール条約をアジアに普及し、湿地保全を促進することが目標だった。「2つの計画が同じ目標をめざしているなら、いっしょにやったらどうですか」とネイビッドはいった。いい考えだが環境庁にはNGOと共催した前例がないと答えると、「それなら、この機会を日本で初めての事例にしたらどうです。ラムサール条約は、NGOの発議で誕生した条約で、NGOはたいせつなパートナーと位置づけています」とつづけた。

そのころの日本には、国の機関と市民団体が対等な立場で同じ目的に向かって協力するという土壌がまだ育っていなかった。1960年から1970年代にかけて急速に経済発展した日本では、並行して水や大気の汚染、大規模な自然破壊が進み、公害反対、開発反対の市民の声が高まっていた。1970年には東京で、日本野鳥の会や日本自然保護協会ら自然保護NGOが中心になって「自然を返せ」デモがおこなわれもした。そうしたなか1971年に誕生した環境庁は、自然保護、開発反対、公害反対の市民の声を受け止める矢面に立たされてきたので、互いに手を携え共通の目標に向かって進むパートナーという認識は、環境庁、NGO双方ともに希薄だった。国と協働する意欲と質をもったNGOが育っていなかったともいえる。

ネイビッド局長の提案を持ち帰った環境庁から、週が明けてすぐに「共催することを決めました」と連絡があった。野生生物課長菊地邦雄さんの英断だった。「ただし環境庁が共催に入ると、NGO主催とは異なる制約も加わりますよ」と付言されたが、国の事業となり、国庫が拠出される以上、それは当然のことと私たちは納得した。

そして、重要な提案が環境庁からあった。シンポジウムを釧路市で開催したいというのだ。ラムサール条約COPの開催に先駆けて1992年秋に釧路市で、ラムサール条約の常設委員会が開催されることが決まっていたので、それと抱き合わせでシンポジウムを開催すれば、常設委員の政府代表ほかラムサール条約事務局、主だった国際NGO代表の参加が期待できる。釧路市にとってもCOP5の事前広報になり、国際会議のホスト役の予行演習にもなる。もっともな提案だった。

しかし、琵琶湖で開催できなければ、ラムサール条約を全国に広めるという当初の目的は果たせなくなる。琵琶湖で開催することを前提に相談に乗ってくれていた琵琶湖研究所やILECにも申し訳ない。

協議の結果、大津市と釧路市の双方で開催するという、大胆な結論になった。ラムサール条約の常設委員会は1992年10月21日から開催される予定で、それを考慮してシンポジウムの開催は1992年10月15日から20日とする。前半の15日、16日、17日を滋賀県大津市で、18日を移動日とし、後半の19日、20日を北海道釧路市で開催する。日本一の湖の琵琶湖と、日本最大の湿原の釧路湿原のフィールドプログラムも組み入れることになった。

1991年10月、環境庁、滋賀県、北海道、ILEC、ラムサールセンター、ラムサール条約釧路会議地域推進委員会の6団体でアジア湿地シンポジウムを共催することが正式に決まった。

組織体制が決まり、資金集めも順調に動き出した。環境庁の拠出のほか、COP4で支援を約束してくれた複数の国際NGOや滋賀県、アジア開発銀行(ADB)、海外環境協力センター(OECC)、富士フィルムグリーンファンド、ゴルファーの緑化基金などの支援が決定し、先に紹介した日本債券信用銀行ほか複数の企業協賛も得て、結果的には2000万円を超える資金が集まった。国連開発計画(UNDP)、国連環境計画(UNEP)などは、自らのもつ途上国支援の枠組を使ってアジアの参加者の旅費などを直接負担してくれることになった。ラムサール条約事務局は、釧路市で開催の常設委員会の参加者やスタッフを早めに日本に送りこみ、滋賀県で開会するアジア湿地シンポジウムに参加できるようにしてくれた。これら直執行の資金を加算すると、総事業費は3000万円を超える規模になった。当初、協力を断わられたIWRBJも、資金供出ととともにシンポジウム実行委員会に代表を送りこむなどして開催に協力してくれた。

アジア湿地シンポジウムの開催組織構成をBOX1に記すように、多くの組織、人々に支えられ、アジアではじめての湿地保全をめぐる国際シンポジウム「アジア湿地シンポジウム-アジアの湿地の賢明な利用をめざして」は実現することになった。

 

Ⅶ. アジア湿地シンポジウム事務局開設

開催組織態勢を模索する作業と並行して1991年5月、ラムサールセンターは磯崎先生を中心にした「アジア湿地シンポジウム準備委員会」を発足させ、シンポジウムの目標、内容、プログラム、招待講演者、財政などの具体的な検討を進めていた。この準備委員会はのちに誕生する共催6団体とIWRB代表からなる公式的な「アジア湿地シンポジウム実行委員会」とは異なり、ラムサールセンター会員を中心にシンポジウム開催業務をサポートするボランティアチームで、準備段階から、開催当日、開催後の報告会まで、助言、情報提供、連絡係、会場設営、参加者案内、運転係など、さまざまな形でシンポジウムの運営を支えてくれた。

シンポジウム事務局はラムサールセンター(東京・新宿)に置くことにし、私と武者さんは、ILECの安藤さんの助言を受けながら、ロジスティックスつまり裏方としてのさまざまな事務作業を開始した。

まず、ラムサールセンターの電話とは別のファクス専用の電話回線を引いた。ファクスと電話一体型の家庭用機種が登場する前のことだ。インターネットは、当時、話題にはなっていたが、雲の上の存在だった。ワープロ通信は少しずつ広まってはいたが、国際コミュニケーションの主役はなんといっても「郵便」で、緊急の場合には電話かテレックスを使っていた。「国際会議をやるんだから、パソコンの1台くらい、思い切って買わなくては」と安藤さんに発破をかけられ、ノートブックパソコンの走りの東芝ダイナブックも購入した。

最初の重要な仕事は、シンポジウムの広報だった。環境庁とラムサール条約事務局の協力を得てアジア各国政府に、シンポジウム開催の告知をした。国際環境法関係者へは磯崎先生がIUCN-CELの協力も得て情報を流した。アジアのNGOや研究者への周知は、IUCNのニュースレターに「アジア湿地シンポジウムが、1992年秋に日本で開催される」という一報を載せてもらった。世界中のNGOを会員にもつIUCN発行のニュースレターは、当時、自然保護関連のもっとも強力な紙媒体のひとつだった。

「参加したい。もっと詳しい資料がほしい」という内容の国際郵便やファクスが、事務局に届きはじめた。それを受けて、会期、会場、全体プログラム、セッションのテーマ、アクセス情報、ホテル情報などを掲載した英語の詳細案内と参加登録用紙を、ひとりひとりに郵便で送り返す。シンポジウムの詳細案内と参加登録用紙は日本語版もつくり、全国のNGOやメディアを通じて広報した。

やがて記入済みの参加登録用紙が、ファクスや郵便で返送されてきて、参加者の顔ぶれが次第に明らかになってきた。大津会議、釧路会議あわせ、事前登録者は最終的に200人を超えた。

1992年春からは、次第に忙しくなった事務局を手伝いに、京都の精華女子短大を卒業したばかりの高井歩さんがきてくれることになった。ラムサールセンター歴代のボランティアスタッフ第1号である。高井さんは新品のダイナブックを操り、ロータス123を使いこなして参加者名簿をつくり、たまにかかる英語の電話も動じることなく応対して、若い世代ならではの働きぶりで活躍した。

途上国からの参加者へのビザ発給の手配には手間がかかったが、ILECの経験によるところが大きかった。海外参加者のシンポジウム開催地(大津市)への誘導も難題だった。そのころ日本の駅や街中には英語の表示や標識はほとんどなく、初来日の参加者が路頭に迷う恐れがあった。そこで、日本への入国はできるかぎり大阪国際空港(伊丹空港)を使い、空港から京都駅まではリムジンバスで移動、京都から大津へはJRに乗らずにタクシーを利用するように案内した。外国人観光客を迎え慣れている京都までくれば、うろうろしているアジア人を手助けしてくれる人がいるに違いない、とひそかに期待もした。

ホテルは、会議場の徒歩圏内に新しくオープンしたビジネスホテルを借り切って、主催者側で招待した海外参加者と事務局スタッフをそこに集めで、事務局ホテルにすることにした。自費でくる参加者には、近隣のホテル情報を提供し、各自で予約してもらった。

事務局ホテルのフロントのスタッフは英語がまったくで、会議室を事務局部屋として常時オープンにし、ボランティアを配置して、五月雨式に到着する参加者のチェックインをサポートすることも決めた。

シンポジウムの中身、つまりプログラム構成や講演タイトル、スピーカーとの調整、アブストラクトの編集、成果とする勧告の起草の検討などシンポジウムの質にかかわることは、磯崎先生たち専門家と環境庁にお任せした。事務局の仕事は、会議のスムーズな運営にかかわる各種雑用なのだが、開催地が滋賀と釧路にまたがり、距離の遠さだけでなく背景文化が大きく違っていたこともあり、2つのシンポジウムを別々に準備したのと同じようなことだった。国際会議の事務局経験があるのは安藤さんひとりで、安藤さんから切れ目なく出てくる指示と、次々に起こる予期せぬ事態への対応をこなすのが精いっぱいだった。

文字通り目の回るような数か月がすぎ、シンポジウム開催が迫ってきた。1992年10月12日に武者さんと私は東京の事務局を閉め、「ラムサール号」で大津入りした。磯崎先生、高井さん、ボランティアらもほどなく合流した。

シンポジウムの開会を翌日に控えた10月14日には、いろいろなことが起こった。海外からの参加者を乗せて大阪空港に着陸するはずの飛行機が、どういうわけか名古屋空港に降りてしまった。電話がかかってきたときはすでに夜半。遠隔操作で新幹線に誘導するには遅すぎる時間だった。運転好きな学生ボランティアが、「ラムサール号」で名神高速道路を走って迎えに行き、連れてきた。

バングラデシュのNGOの参加者は、大阪空港で足止めさせられた。シンポジウムの招待状もビザもあるのに入国させてもらえない。当人が「中村玲子に聞いてくれ」と連呼している、と空港の入国管理事務所からシンポジウム会場の琵琶湖研究所に電話があり、事情を説明してようやく入国を許可してもらった。

イランの政府高官が2人、長いマントの裾をひるがえし、巨大なスーツケースとともに、夜の事務局ホテル前に現れたときも驚いた。イラン政府にはシンポジウムの案内を何度も送ったが、なしのつぶてで返事がなかった。来ないものだと誰もが思い込んでいた。来てくれたのはうれしいが、ホテルはすでに満室。あっちこっちと電話をかけまくってどうにか部屋を確保し、送りこんだ。こんなことの連続だった。

こうして10月15日午前9時、アジア湿地シンポジウムは予定通りに開幕した。

大津会議の基調講演には、ラムサール条事務局長のD.ネイビッド、IWRB代表のM.モーザー、パキスタン政府代表のA.U.ジャン、環境庁野生生物課長の喜夛弘、IUCN-CEL委員長のP.ハッサンが立った。P.ハッサンの講演タイトルは「リヨンから大津へ-湿地の保全と賢明な利用のための法制度」だった。1987年のリヨン会議のフォローアップを日本で、という磯崎先生の願いが結実した瞬間だった。

セッションⅠ「湿地の保全と賢明な利用」のスピーカーにはノルウェー政府のS.エルドイ、セッションⅡ「湿地の管理とモニタリング」ではラムサール条約副事務局長のM.スマート、「一般公開セミナー」ではIUCNのP.デュガン。いまこうして書いて、改めて驚くほどの世界レベルの専門家が名を連ねた。

「なぜ、湿地を保全しなければいけないのか」「ラムサール条約は何をめざすのか」「賢明な利用とはなにか」「どうして国際協力が必要なのか」・・・・・・。私を含め、日本とアジアからの参加者の多くにとって、初めて聞くラムサール条約と湿地保全に関する本格的な「議論」だった。乾いた白い紙が水を吸収するように、私たちはそれらを受け取った。

10月16日の夜には、特別セッション「琵琶湖の夕べ」が開催された。琵琶湖の保全に関わりのある地域の人たちの発表が続き、琵琶湖のヨシを使って工芸品をつくるヨシ職人の竹田勝博さんが、手づくりの簾を高く掲げながら、琵琶湖の保全のたいせつさを訴えた。「賢明な利用」の確かな事例がそこにはあった。

3日目のエクスカーションでは、船で湖上にでた。琵琶湖の富栄養化に挑むさまざまな取り組みに質問が途切れなかった。

10月17日、大津会議の閉会式で壇上に立った磯崎先生を、スタンディングオベージョンの波が包んだ。

翌日の大津からの釧路への大移動を経て、19日からの釧路セッションでも、シンポジウムの熱気は途切れなかった。基調講演にADBのI.ルシカ、セッションⅢ「国際協力」ではフィリピンのA.トレンティーノ、オーストラリアのW.フィリップス、ボン条約事務局長のD.ハイクル、セッションⅣ「エコツーリズム」ではUSAのL.ハインズが壇上にあがった。北海道大学教授の辻井達一先生がコーディネーターをした19日午後の一般公開プログラムには、800人近い市民が参加し、ラムサール条約の普及啓発に大きく貢献し、翌年のCOP5の重要な先導役となった。秋の気配を深め、黄色く色づいた釧路湿原のエクスカーションも大好評だった。

アジア湿地シンポジウムには、スピーカーとして壇上には上がらなかったが、フランスのA.キース、J.ウンターマイヤーなど、1987年のリヨン会議に参加した環境法の専門家が多数参加していた。これら専門家はP.ハッサンを議長に「勧告起草委員会」を組織し、シンポジウムの公式プログラムが進行するのと並行して、毎晩遅くまで議論を重ねた。そして、1.認識の高揚、2.制度面の機能強化と訓練、3.湿地のモニタリング、4.コンセンサスの構築、5.政策と法政、6.国際協力、7.開発援助と湿地保全、8.エコツーリズムの8項目にわたる、A4判5ページ4000ワードの「アジア湿地シンポジウム勧告」を起草した。磯崎先生の思いがこめられたまさに一大成果だった。

釧路会議の最終日、10月20日、「アジア湿地シンポジウム勧告」を満場一致で採択して、シンポジウムは終了した。

 

Ⅷ. エピローグ

アジア湿地シンポジウムには、結局、24か国から60人の海外参加者をふくめ約300人が参加した。アジアからは韓国、中国、ベトナム、ラオス、マレーシア、タイ、フィリピン、インドネシア、ネパール、バングラデシュ、インド、スリランカ、パキスタン、イラン、ヨルダンが参加した。

終了後の記者会見で、稲葉稔滋賀県知事は、琵琶湖のラムサール条約登録を検討すると発表した。

環境庁は1993年のCOP5(釧路)開催を機に、北海道の「霧多布湿原」「厚岸湖・別寒辺牛湿原」、千葉県の「谷津干潟」、石川県の「片野鴨池」、そして滋賀県の「琵琶湖」をラムサール条約に登録した。2019年現在、日本のラムサール条約登録湿地は52湿地に増え、最も南の登録湿地は沖縄県石垣島の名蔵アンパルである。

1992年に10か国に満たなかったアジア地域のラムサール条約締約国は、現在34か国である。未加入国はブルネイ、サウジアラビア、モルディブなど数か国にすぎない。

アジア湿地シンポジウムは、COP5成功のための1度だけの開催で企画したものだったが、1992年のシンポジウムに参加したアジアの人たちから声が上がり、2001年にマレーシアのペナンで第2回が、2005年にはインドのブバネシュワルで第3回が開催された。そして2005年のラムサールCOP9(ウガンダ・カンパラ)で、日本政府が提案して採択された「決議IX.19:ラムサール条約の効果的な履行に果たす地域湿地シンポジウムの重要性」以降、定期的な開催が締約国の責務となり、第3回(2008年べトナム・ハノイ)、第4回(2011年マレーシア・サバ)、第5回(2011年中国・無錫)、第6回(2013年カンボジア・シェムリアプ)と引き継がれ、2017年の第7回は25年ぶりに日本の佐賀市で開催された。次回第8回アジア湿地シンポジウムは、2020年11月に韓国・順天で開催の運びで、準備が進められている。

1990年から1996年まで会長、その後は副会長としてラムサールセンターを牽引し、ゆらぐことのない理論的、精神的支柱だった磯崎先生は2019年6月にその座を退いた。私も同時に、29年間の事務局長の席を、若い会員にバトンタッチした。

とはいえ、ラムサール条約と湿地の賢明な利用の私設応援団であることを止めるつもりはない。磯崎先生もきっと同じ気持ちでいるに違いない。